CHAPTER 05 共創

祇園の灯を、ともに未来へ。

「帝国ホテル 京都」として再生させる国の登録有形文化財「弥栄会館」。その所有者である「学校法人 八坂女紅場学園(やさかにょこうばがくえん)」の理事長で、創業から300余年の歴史を刻んできた老舗のお茶屋「一力亭」女将・杉浦京子さんに、伝統と格式を誇る花街・祇園甲部が置かれている状況や、祇園町が進むべき未来、帝国ホテル 京都への期待を伺いました。

祇園の長い歴史と伝統の礎

江戸・寛政年間より八坂神社の門前の茶店を起源として栄え、後に京都最大の花街となった祇園甲部。その発展に大きく貢献してきたのが、帝国ホテルが京都でのホテル計画を実現するために事業協定を結んだ学校法人八坂女紅場学園です。

「女紅場は明治時代の初期に各地に設立された女性のための教育機関です。もともとは裁縫や手芸など生活するために必要な手仕事を教えていましたが、祇園町では明治6年(1873年)に八坂女紅場学園の母体にあたる婦女職工引立会社が誕生し、芸妓と舞妓に技芸を習得させるようになりました。その後、昭和26年(1951年)に学校法人となり、学びの場は祇園女子技芸学校と称しています。学校より稽古場としての要素が強いこともあって、町の皆さんからは “にょこば”の愛称で親しまれています」

技芸継承と芸妓・舞妓の役割

京都の伝統的な花街文化を担う祇園町の芸妓と舞妓。その養成機関である“にょこば”では実際にどんな稽古が行われているのでしょうか。

「芸妓や舞妓に求められる最も大事な役割は、舞をはじめとする数々の伝統芸能を身に付けてお客さまをおもてなしすること。学校では祇園甲部でのみ舞い継がれている京舞井上流をはじめ、鳴物や長唄、小唄、三味線、さらには茶道や華道などの芸事を指導します。祇園町では、舞妓から芸妓になると、舞を披露する立方(たちかた)になります。そして、音楽で舞を支える地方(じかた)は、芸妓からの店出し(=デビュー)となり、それぞれの道のお稽古を続けることで研鑽を積むのですが、いずれにしても三味線の基礎があった方が良いと考え、舞妓も長唄科で三味線を必修にしています」

コロナ禍を乗り越える若手育成の努力

「八坂女紅場学園は他にも祇園甲部歌舞練場をはじめとする建物や、祇園町南側の土地の管理を行い、町並みの保全や伝統技芸の振興に努めております」と杉浦さん。しかし、実際は舞妓の数が10年前から半減するなど厳しい状況にさらされているといいます。その現実をどんな想いで見つめているのでしょうか。

「今年は春に学校を卒業した子たちが11人、祇園甲部に仕込みさんとして来てくれました。11人は恐らく史上最少と思います。コロナ禍の影響でなり手が減り、その間に店出しした舞妓さんが次々と衿替(えりかえ=舞妓から芸妓になる)したことが原因です。今は全員の店出しが叶うことを願ってやみません。

時代が移り変わって価値観が多様化したからでしょうか、いったん舞妓や芸妓になっても違う世界を経験したいからと言って祇園町を去る人もいますが、一方で一念発起して飛び込んで来てくれる人もいます。近頃はこの世界に憧れて、大学を卒業した後や、いったん社会人として働いた後で志願してきてくれる人がいはるんです。嬉しいことです。おかげさまで地方の層が厚くなり、平均年齢が30代になりました。

帝国ホテルさんとは2010年から東西をどり(=帝国ホテル 東京で毎年夏に開催される、京都・祇園の芸舞妓と東京・新橋の芸者が共演する催し)でお付き合いがございますが、毎年、昼の部も夜の部もたくさんのお客さまがお出でになります。お見送りの時に『本当に楽しかった。来年も来たい』と声をかけていただくと、この仕事をやっていて良かったと心から思います。芸妓や舞妓からしても、日頃の稽古の成果が実れば喜ばしいことですし、自信にも繋がります。そうした経験が重なっていけば、この花街の文化は永遠に続くのではないか。少数精鋭にはなりますが、そんな期待を抱きながら、日々、おもてなしに励んでいるところです」

帝国ホテル 京都との歴史的な縁と協力

伝統と格式を守り続ける祇園町。その一員として、2026年春、帝国ホテルが加わります。町のシンボルとして親しまれてきた国の登録有形文化財「弥栄会館」が「帝国ホテル 京都」として生まれ変わります。

弥栄会館をホテルとして再生させる計画の担い手として帝国ホテルが選ばれたのは、なぜでしょうか。杉浦さんは次のように話します。

「当初、この計画には様々な提案がございました。例えば、弥栄会館を取り壊して一から新しい建物を造る。弥栄会館は祇園甲部歌舞練場の敷地内にありますが、その一帯すべてを更地にした上で再開発を行い、そこに歌舞練場とホテルを新設するという案も出ました。そうした中で帝国ホテルさんだけが唯一、弥栄会館を残すとおっしゃってくださった。歴史的に価値のある建物を生かしてホテルにする、と。ありがたいお話でしたね。芸妓さんや舞妓さんのお花代から無借金で建てられた弥栄会館は、まさしく花街として栄えてきた祇園町のシンボルですので、私らも未来に繋げることを望んでおりました。ですから、もう帝国ホテルさんしかないということになったわけです。

建物をいったん潰してしまうと京都市の条例で同じ高さの建物が建てられなくなってしまうのですが、帝国ホテルさんが二つの外壁を保存しながら建物を解体するという難しい工事を選択してくださったことにも感激しました。それから、弥栄会館の外壁に取り付けられたテラコッタレリーフを再利用する過程において、それが帝国ホテルのライト館に使われていたものと同じところで作られたことが判明し、ご縁を感じました。

最近、工事が進んで建物の姿が見えるようになり、弥栄会館が戻ってきたという喜びがひしひしと込み上げています。開業後は、ぜひ、町の人や、祇園を愛し訪ねてくださるお客さまと共存していただきたい。この町にさりげなく溶け込んでほしいなと思っているところです」

祇園町の風情と未来の町づくり

帝国ホテルは「変えるべきものを変え、変えてはならないものを守る」という選択を常に繰り返してきました。時代の流れとともに町はその姿を変えるものですが、祇園町の景観や文化を守り後世に継承したいという気持ちが、杉浦さんにも強くあるようです。

「江戸から明治へと移り変わった時、世の中は新しいものを追い求めるようになりましたが、その激動の最中にあっても祇園町は江戸時代からの町の風情と伝統文化を守り続けてきました。芸妓さんや舞妓さんは江戸末期に誕生した京舞井上流を舞い継いできましたし、彼女らを育てる置屋や、お客さまをお迎えするお茶屋、それをまとめるお茶屋組合、芸舞妓さんたちの学校である八坂女紅場学園も祇園町の存在も、この町の伝統です。さらに言えば、男衆(おとこす)さん、髪結いさん、仕出し屋さん、お料理屋さん、お花屋さんなど、様々なお商売の方々が長年にわたって私らの仕事を支えてくださっています。こうした地域の人々の共創こそが祇園町のあるべき姿。帝国ホテル 京都が開業したら、催し物などを通じて私らが大切にしてきた精神性もお伝えしたいですね」

花街文化の晴れ舞台・歌舞練場に寄り添って、
祇園の町に憩いを届けたもうひとつの舞台、弥栄会館。
堂々と聳えるその姿も、この地で愛されてきた記憶も失うことなく、
これからも誰かの物語を綴る舞台であり続けるために。

「弥栄会館」は「帝国ホテル 京都」へ。

令和八年、ふたたび開場。次は、あなたの寛ぎの舞台へ。

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