次は、寛ぎの舞台へ

花街文化の晴れ舞台・歌舞練場に寄り添って、
祇園の町に憩いを届けたもうひとつの舞台、弥栄会館。
堂々と聳えるその姿も、この地で愛されてきた記憶も失うことなく、
これからも誰かの物語を綴る舞台であり続けるために。
「弥栄会館」は「帝国ホテル 京都」へ。
令和八年、ふたたび開場。次は、あなたの寛ぎの舞台へ。
Story
CHAPTER01inheritance
継承

技術の粋を結集して、祇園のレガシーを継承する
京都に春を告げる風物詩のひとつ「都をどり」が披露される祇園甲部歌舞練場の隣に、興行のための劇場として建てられた弥栄会館。
和の意匠を巧みに取り入れた建物は、祇園のシンボルとして長く人々に親しまれてきました。
耐震性の不足が確認されたことから長らく使われてきませんでしたが、様々な検討の末、このたび2026年春に帝国ホテル 京都として再生を果たします。
しかし、歴史的価値の高い外観を守りつつ、現行の建築基準法にのっとった構造で再建するのは至難の業。
ここではその継承の物語を、設計者である大林組の井上雅祐(本務 設計本部 担任副本部長、兼務 営業総本部 伝統建築・ヘリテージプロジェクト・チーム リーダー)さんのお話とともに紐解きます。
貴重な文化財と高さ制限のはざまで
劇場建築の名手といわれた大林組の木村得三郎が設計した弥栄会館。重層的な屋根や塔屋状の正面部など和の意匠が取り入れられた建物は祇園の美しい町並みを形成し、国の登録有形文化財ならびに京都市の歴史的風致形成建造物として指定されています。90年近くの歳月を経て老朽化や耐震性の問題が確認されたことから、外観を守りつつ現行の建築基準法に適合した構造で、ホテルとして再生させることになり、議論の末、2面の外壁と構造体の一部を保存しながら増改築することが決定しました。ただし、そこに至るまでにはある大きな難題をクリアしなくてはなりませんでした。大林組 設計本部の井上さんは次のように説明します。
「とりわけネックになったのは“高さ”です。弥栄会館がある祇園町南側地区は、木造茶屋様式の町家などが立ち並ぶことから歴史的景観保全修景地区に指定されており、建物を新築する場合、京都市の条例によって“12メートル以下”という高さ制限が課されます。これに対し、1936年に竣工された弥栄会館の高さは31.5メートル。地域に親しまれてきた姿を守るため、また、ホテルとして機能させるためにも、従来の高さを維持したい。そのためには学識経験者など専門家で構成される美観風致審議会および景観審査会に諮問し、特例として認めてもらう必要がありました。そこで、何度となく議論を重ね、祇園のメインストリートである花見小路から見える南面と西面の外壁と構造体を残しながら増改築することで景観を継承するデザインを提案。結果、優れた形態と意匠を有し景観の向上に資するものであるという評価を受け、現在の高さを保ったまま建築することが可能になりました」
大林組の経験値と祇園町との信頼関係が成功の鍵
歴史ある貴重な建物を保存・再生する上で欠かせないのは、経験値と確かな技術です。
「大林組はこれまで数多くの歴史的建造物の保存・再生や、社寺建築の新築・改修に取り組んできました。例えば、1978年に手がけた京都・中京郵便局庁舎の改修。これは内部を新築して外壁だけを残す「外壁保存」の先駆けです。今回の弥栄会館の外壁保存はこの延長線上にあるとも言えます。2024年3月には、社内に伝統建築・ヘリテージ・プロジェクト・チームが設置されました。メンバーは、設計・工事だけでなく品質・技術・営業ほか社内各部門から参加しており、これまでに経験した知見を全体知とし、それを基に歴史的建造物の保存再生プロジェクトに取り組んでいます」
弥栄会館をホテルとして再生させる今回のプロジェクトも異例づくめ。祇園はお茶屋や料亭などが立ち並ぶ独特の場所ゆえに、工事には細心の注意が払われたといいます。
「祇園は基本的に夕方から華やぎが増す街。朝はゆっくり休まれているところが多いので、工事のスタッフは皆、騒音や振動に注意して仕事をしていました。ただ、どんなに気をつけたとしても、作業する以上、それ相応の音が出るのは避けられないことです。地域の方々にご理解いただくため、顔を合わせたら挨拶を交わし、工事の状況を逐一ご説明しました。祇園町南側地区で定期的に行われているイベントに参加するなど、いろいろな形で町に溶け込む努力も重ねました。そのうち私どもの思いが伝わり、皆さんから励ましの言葉をかけていただけるようになったと、聞いています」

京都観光の定番エリアで挑む、前代未聞の“残す解体”
建物を解体するには大型の重機が欠かせません。お茶屋や料亭などが立ち並び、平日の昼間でも観光客でにぎわう祇園での搬出入は、まさに難題です。
「解体に用いる大型の重機の搬出入は人通りが少ない早朝に花見小路を利用。それ以外は南側の一本道にて行うことに決めました。道幅が狭いので、車両は4トン車以下に限定。弥栄会館に隣接する祇園甲部歌舞練場も同じタイミングで工事に入ったので、建設会社間で調整し譲り合いながらの作業になりました」
かくして“残す解体”が始まりました。井上さん曰く「最大の難関は西面と南面の2つの外壁を残しながら解体すること」。解体の仮設計画は構造設計が主導し、施工チームには細心の注意と丁寧さが求められ、これには恐ろしいほどの手間がかかったそうです。
「大きな地震が起こると倒壊の恐れがあるので、一気に解体を進めて保存する2面の壁だけにすることはできません。内側から補強しつつ解体するという作業を繰り返しながら進行しました。同じ規模の建物の解体や新築と比較すると、何倍もの時間と労力が費やされています。それゆえに近隣の方からは十分なご理解をいただかなくてはなりませんが、あるテレビ番組でその工事の難しさや特異性が取り上げられたことで、地元の方に愛されるランドマークを残すために作業していることが理解され、これまで以上に地域の皆さまとのコミュニケーションが円滑になったと現場所長と施工チームが感激しております」
外装のタイルを再利用し当時の空気感も継承
お茶屋組合や芸妓組合がお金を出し合って無借金で建てられた弥栄会館。当時の空気感を後世に遺す上で、外装を覆っていた意匠を再利用することは極めて重要です。
「例えばタイルについては、損傷を与えないように取り外して再利用する“生け捕り”を実施。付着したモルタルを除去した上で健全性を確認するというアプローチが一枚ごとに繰り返されました。風雨にさらされたタイルは脆くなっているので、力加減を誤ると簡単に割れてしまいます。最終的に全体の10%程度、約1万6000枚の確保を達成しました。現場の職人さんにはただただ頭が下がります。ホテルのシンボルとなる南面のタワーの外壁と西面の一部には、その約90年前のタイルが落下防止対策を施した上でそのまま残され、残りの西面と南面は、再利用タイルと新たに作り直したタイルが共存しています」
テラコッタに見る、弥栄会館と帝国ホテルの共通点
テラコッタは大正から昭和初期に流行した建物を装飾する陶器。弥栄会館の5階の外壁部分には、開館当時からあるレリーフのテラコッタが取り付けられており、そのほとんどを再利用しています。
「記録によれば、製造したのは愛知県常滑市の伊奈製陶(※現LIXILである旧INAXの前身)。状態の良いものは慎重に固定して保存。状態の悪いものは3Dスキャンで型をとり、忠実に復元しました」
面白いことに、建築家フランク・ロイド・ライトが手がけた帝国ホテル2代目本館(通称「ライト館」)で使用されていたレンガやテラコッタは同じ常滑市で製造されていて、ライト館に関わった職人の多くが弥栄会館のテラコッタを手掛けていたことがわかりました。 弥栄会館と帝国ホテルには時空を超えた共通点があったのです。弥栄会館のテラコッタを保存することは、帝国ホテルにとって物語を継承するという意義深いことでもあります。
木村得三郎とフランク・ロイド・ライトの意外な関係
さて、ここにもうひとつ、弥栄会館と帝国ホテルを結び付ける興味深いエピソードがあります。主人公は弥栄会館を設計した大林組の木村得三郎。その作品をたどると、帝国ホテル2代目本館を設計したフランク・ロイド・ライトの存在が浮かび上がってきます。
「木村さんの手による大阪の松竹座には、アメリカの建築家ルイス・サリヴァンを彷彿とさせる意匠が見てとれます。外壁がアメリカ製のテラコッタで装飾されていることも特徴的です。そして同じく木村さんが手がけた京都の先斗町歌舞練場には、サリヴァンの弟子にあたるフランク・ロイド・ライトが帝国ホテル2代目本館をつくる際に持ち込んだスクラッチタイルが採用されました。そのあとに竣工した弥栄会館は、ルイス・サリヴァンとフランク・ロイド・ライトの影響を受けた木村さんの集大成とも言えます」
フランク・ロイド・ライトによる帝国ホテルと、木村得三郎による弥栄会館。両者にはデザインや素材において浅からぬつながりがあったのです。
歴史と文化を受け継ぐ帝国ホテル 京都に憩う歓び
帝国ホテル 京都の竣工は2025年10月、開業は2026年春を予定しています。最後に、本プロジェクトを牽引してきた井上さんが考える帝国ホテル 京都の魅力を伺いました。
「色々あると思いますが、建築に携わる人間からすると、やはり歴史ある建物をホテルにしているところです。ヨーロッパではそういうケースが珍しくありません。私は大林組に入社してからイギリスに留学して設計を学び、新築と改修が並列で扱われることに驚かされました。いま思うと、あの時の経験があったから今回のプロジェクトで学識経験者の方々と渡り合うことができたのかもしれません。時を経てから木村さんの図面と対話するのは並大抵のことではありませんでしたが、だからこそ歴史ある弥栄会館がホテルとして再生し、後世に遺す歓びを噛み締めています。祇園の美しい街並みを継承する帝国ホテル 京都には、ここでしかできない体験があるはずです。ぜひ、それを味わっていただきたいと思っています」

CHAPTER02history
歴史

京都を知る。弥栄会館に学ぶ。現代の帝国ホテルの役割とは?
明治維新後の近代化を目指した日本において外国の賓客をもてなすために生まれた帝国ホテルは、明治、大正、昭和、平成、そして令和と、世紀を超え、和の心を込めた上質なおもてなしをひたむきに追求してきました。その新たな舞台となるのが、京都・祇園の地で世界に誇る日本の“おもてなし”文化の一つを継承してきた国の登録有形文化財「弥栄会館」です。“伝統ある“メイド・イン・ジャパン”のホテル”と“京都のレガシー”の共創は、まさに唯一無二の新しいおもてなしの幕開け。その軌跡を、アーカイブに残る写真や、往時の弥栄会館を知るひとの言葉から振り返ります。
時代の要請に応える上質なおもてなしを目指す帝国ホテル
帝国ホテルは欧化主義が広まった明治の鹿鳴館時代に構想され、1890年(明治23年)に海外からの賓客のための“迎賓館”としての役割を担い東京・日比谷の地に誕生しました。その設立にあたっては、のちに初代会長を務めた渋沢栄一をはじめとする財界人たちが発起人となり、宮内省や、当時の名だたる財閥が出資。官民が一体となる、まさに国の威信がかかったホテルでした。
その後、1923年(大正12年)には、20世紀を代表する建築家、フランク・ロイド・ライトが手がけた帝国ホテル2代目本館(通称「ライト館」)が完成。アメリカの喜劇王チャールズ・チャップリンや、ヘレン・ケラーなど、歴史に名を連ねる著名人が滞在するなど、東洋と西洋の文化が交わる拠点としての役割も担いました。また、1933年(昭和8年)には日本初の本格的な山岳リゾートホテルとして「上高地帝国ホテル」が、さらに1996年(平成8年)には、新しい空の玄関口として関西国際空港が開港したのを受け、国際都市としてさらなる発展が期待される大阪に「帝国ホテル 大阪」が開業しました。
帝国ホテルは130年以上にわたって時代のニーズを見極めながら挑戦を繰り返し、それと同時に“時代の要請に応える上質なおもてなしを提供する”という使命をまっとうし続けています。
1936年竣工の祇園を象徴する建造物
帝国ホテルは次なるおもてなしの舞台として京都・祇園の中心にある建物を選びました。芸妓組合やお茶屋組合の寄付によって、1936年(昭和11年)に竣工された「弥栄会館」です。建設当初は演劇や人形浄瑠璃の公演に、戦後は映画館やダンスホール、コンサートなど各種興業にも利用されました。いつの時代も地元の人達に親しまれ、大切にされる存在でした。
特徴的なのが、その独特な外観です。建物を設計したのは劇場建築の名手であり、大阪松竹座や先斗町歌舞練場などを手がけた木村得三郎。当時としては珍しい鉄骨鉄筋コンクリート造の各階に付庇や銅板瓦葺屋根をかけたり、正面中央部に城郭の天守を思わせる造形を取り入れたりと、和風の伝統的な意匠が巧みに盛り込まれました。その風情溢れる建物は、歴史と伝統があるお茶屋などの町並みと共に祇園町南側の景観を形成し、国の登録有形文化財ならびに京都市の歴史的風致形成建造物に指定されています。
帝国ホテルはこの優美な佇まいを継承し、2026年春、「帝国ホテル 京都」が開業します。
舞妓・芸妓衆の想いは瓦一枚にまで込められて
「弥栄会館は舞妓はんや芸妓はんのお花代からの天引きによって建てられたものだと聞いてます」。そう証言してくださったのは、祇園のお茶屋「京屋」の女将であり、バー「ぎをんてる子」も経営するてる子さん。弥栄会館が竣工した翌年の1937年、祖母の代から続く祇園町のお茶屋に生まれた生粋の祇園のひとです。16歳で舞妓に、19歳で芸妓になり、今日まで70年以上にわたり国内外の著名人をおもてなしされてきました。その中には、エリザベス女王や、ケネディ元駐日大使、小澤征爾など、錚々たる人物が含まれます。
「母の話によると、弥栄会館が竣工した頃は祇園甲部にお茶屋さんが300軒、舞妓はんと芸妓はんが800人から1000人ぐらいいはって、それぞれがお花代から一円貯金をすることで建設費用を工面したらしいです。当時の一円の値打ちがどれだけのものか私にもわからしまへんけど、とにかくそのおかげで、無借金で建てることができたと聞いています」
現在、京都には五つの花街が存在しますが、中でも祇園甲部は数百年の歴史を持ち、いにしえからの伝統が大切に受け継がれているといいます。舞妓や芸妓による磨き抜かれたおもてなしの対価から生まれた弥栄会館は、いわば彼女たちの分身のような存在。振り返れば、帝国ホテルもまた、日本の近代化を目指す高い志を持った人々の熱意によって生まれました。
両者の類似点はこれだけではありません。人々にとってかけがえのない集いの場であったこともそう。帝国ホテルが文化交流の拠点となったのは前述の通りですが、弥栄会館については「私が子どもの時分、京都には他に多目的ホールがなかったので、娯楽を楽しめる弥栄会館は貴重な存在でした」と、てる子さん。
「幼い頃は、兄や近所の子どもらと連れ立って建物の外に設けられた螺旋階段を上り、イングリッド・バーグマンが主演する映画など、洋画のロードショーをようけ観ました。懐かしい思い出です。舞妓はんになった時分には、タカラビールが屋上にビアガーデンを出していましたっけ。そうそう。夏には前の広場で盆踊りもやっていました」
人々が集う場としての親和性が高い「帝国ホテル」と「弥栄会館」。こうしてみると、両者の出会いは必然のものだったのかもしれません。
映画『サヨナラ』の舞台にもなった弥栄会館
さて、弥栄会館は地元の人達に親しまれただけでなく、一本の映画を通して日本と外国の文化交流の一端も担いました。
その映画とは、1957年に公開されたマーロン・ブランド主演のハリウッド作品『サヨナラ』。朝鮮戦争時に日本に転任してきたアメリカ軍人(マーロン・ブランド)と、歌劇団の花形スターである日本人女性(高美以子)の恋物語で、撮影は京都や東京で行われました。弥栄会館は歌劇団の劇場として二人の恋の行方が決まる重要なシーンに登場します。
「京都でのロケはたしか1年ぐらいかかったのと違いますか。当時、私は舞妓でしたが、弥栄会館でもずいぶん長いこと撮影していたと記憶しています。マーロン・ブランドは撮影が終わると毎晩のように祇園の町に来てはりました。私の膝枕で寝てはる写真も残っています。実は私もちょっとだけ出演しているんですよ。マーロン・ブランド扮する軍人には婚約者がいるんですけどね、日本の女性と一緒になるから諦めるように説得するシーンで、舞妓はんとして登場し、お酌をしました。お座敷遊びのシーンにも映っています」
映画が完成すると、てる子さんは宣伝のためアメリカに渡りました。海外へ行くことを「洋行」と言っていた時代、日本髪に着物という出で立ちで、ハワイやロサンゼルス、ワシントンD.C.を巡ったそうです。
「羽田から日本航空が週に1便しか飛んでいない頃です。ワイキキの綺麗な海や椰子の木を目にしても、これがハワイというところなんだなというぐらいの感想でした。でも、ハリウッドに行ってオードリー・ヘプバーンと写真を撮った時はさすがに興奮しましたね。航空会社のストライキに遭わなかったら、ケネディ大統領にもお会いすることができたかもしれません」
帝国ホテル 京都に期待すること
2014年に耐震性の不足が確認されて、2017年からは一部を改修・耐震補強し、ギオンコーナーとして利用されていた弥栄会館。てる子さんは当時を振り返り、「老朽化は哀れ。タイルが剥がれていたりするのを見るのはつらかった」と述懐します。
「そやさかい、帝国ホテルさんが来ることで再生が決まり、ありがたいと思いました。お茶屋も、芸妓はんも、舞妓はんも減った今の祇園の体力では、竣工した時と同じようにはいかしまへん。だからこうして助けてもろて、ホテルと町が持ちつ持たれつでやっていけたらいいなと思っています。やっぱり自分の生まれ育った祇園町には並々ならぬ恩を感じています。帝国ホテルは日本で一番のホテルやさかい、新しい風が吹いてお客さんの流れも変わるのと違いますか。私らは昔と変わらずおもてなしの心を磨き上げて、その時を待ち望んでいるところです」
Other Story
ホテル開業までのストーリーを順次お届けしてまいります。
News
Release歴史と文化を受け継ぐホテルを
~弥栄会館を保存・活用した京都 新規ホテル計画~
この度の京都の計画は、帝国ホテルブランドのホテルとしては東京・上高地・大阪に続く、4拠点目の新規開業となります。
日本を代表する国際文化観光都市である京都、その中でも象徴的な場所である祇園甲部歌舞練場の敷地内にある弥栄会館を活用した新規ホテル計画は、130年以上にわたり世界各国からのお客様を迎えてきた当社の歴史や企業理念との親和性が非常に高いと考えております。これまで培ってきたノウハウを結集したサービスを提供することで、帝国ホテルのブランドを向上させるとともに、地域に愛されてきた弥栄会館に新たな息吹をもたらし、未来へ紡いでまいります。
内装デザインは、株式会社新素材研究所の榊󠄀田倫之(さかきだ ともゆき)氏が担います。
新素材研究所の「古いものが新しい」というコンセプトに基づく提案が、歴史的・伝統的価値を継承しながら新たな価値の創出を目指す本計画との親和性が高いと評価し、帝国ホテルの新しいページを創っていくパートナーとして選定しました。
新規ホテルの正面玄関部分完成イメージ
