帝国ホテル 京都を知る~CHAPTER 02~
粋Chic

京都を知る。弥栄会館に学ぶ。現代の帝国ホテルの役割とは?
明治維新後の近代化を目指した日本において外国の賓客をもてなすために生まれた帝国ホテルは、明治、大正、昭和、平成、そして令和と、世紀を超え、和の心を込めた上質なおもてなしをひたむきに追求してきました。その新たな舞台となるのが、京都・祇園の地で世界に誇る日本の“おもてなし”文化の一つを継承してきた国の登録有形文化財「弥栄会館」です。“伝統ある“メイド・イン・ジャパン”のホテル”と“京都のレガシー”の共創は、まさに唯一無二の新しいおもてなしの幕開け。その軌跡を、アーカイブに残る写真や、往時の弥栄会館を知るひとの言葉から振り返ります。
時代の要請に応える上質なおもてなしを目指す帝国ホテル
帝国ホテルは欧化主義が広まった明治の鹿鳴館時代に構想され、1890年(明治23年)に海外からの賓客のための“迎賓館”としての役割を担い東京・日比谷の地に誕生しました。その設立にあたっては、のちに初代会長を務めた渋沢栄一をはじめとする財界人たちが発起人となり、宮内省や、当時の名だたる財閥が出資。官民が一体となる、まさに国の威信がかかったホテルでした。
その後、1923年(大正12年)には、20世紀を代表する建築家、フランク・ロイド・ライトが手がけた帝国ホテル2代目本館(通称「ライト館」)が完成。アメリカの喜劇王チャールズ・チャップリンや、ヘレン・ケラーなど、歴史に名を連ねる著名人が滞在するなど、東洋と西洋の文化が交わる拠点としての役割も担いました。また、1933年(昭和8年)には日本初の本格的な山岳リゾートホテルとして「上高地帝国ホテル」が、さらに1996年(平成8年)には、新しい空の玄関口として関西国際空港が開港したのを受け、国際都市としてさらなる発展が期待される大阪に「帝国ホテル 大阪」が開業しました。
帝国ホテルは130年以上にわたって時代のニーズを見極めながら挑戦を繰り返し、それと同時に“時代の要請に応える上質なおもてなしを提供する”という使命をまっとうし続けています。
1936年竣工の祇園を象徴する建造物
帝国ホテルは次なるおもてなしの舞台として京都・祇園の中心にある建物を選びました。芸妓組合やお茶屋組合の寄付によって、1936年(昭和11年)に竣工された「弥栄会館」です。建設当初は演劇や人形浄瑠璃の公演に、戦後は映画館やダンスホール、コンサートなど各種興業にも利用されました。いつの時代も地元の人達に親しまれ、大切にされる存在でした。
特徴的なのが、その独特な外観です。建物を設計したのは劇場建築の名手であり、大阪松竹座や先斗町歌舞練場などを手がけた木村得三郎。当時としては珍しい鉄骨鉄筋コンクリート造の各階に付庇や銅板瓦葺屋根をかけたり、正面中央部に城郭の天守を思わせる造形を取り入れたりと、和風の伝統的な意匠が巧みに盛り込まれました。その風情溢れる建物は、歴史と伝統があるお茶屋などの町並みと共に祇園町南側の景観を形成し、国の登録有形文化財ならびに京都市の歴史的風致形成建造物に指定されています。
帝国ホテルはこの優美な佇まいを継承し、2026年春、「帝国ホテル 京都」が開業します。
舞妓・芸妓衆の想いは瓦一枚にまで込められて
「弥栄会館は舞妓はんや芸妓はんのお花代からの天引きによって建てられたものだと聞いてます」。そう証言してくださったのは、祇園のお茶屋「京屋」の女将であり、バー「ぎをんてる子」も経営するてる子さん。弥栄会館が竣工した翌年の1937年、祖母の代から続く祇園町のお茶屋に生まれた生粋の祇園のひとです。16歳で舞妓に、19歳で芸妓になり、今日まで70年以上にわたり国内外の著名人をおもてなしされてきました。その中には、エリザベス女王や、ケネディ元駐日大使、小澤征爾など、錚々たる人物が含まれます。
「母の話によると、弥栄会館が竣工した頃は祇園甲部にお茶屋さんが300軒、舞妓はんと芸妓はんが800人から1000人ぐらいいはって、それぞれがお花代から一円貯金をすることで建設費用を工面したらしいです。当時の一円の値打ちがどれだけのものか私にもわからしまへんけど、とにかくそのおかげで、無借金で建てることができたと聞いています」
現在、京都には五つの花街が存在しますが、中でも祇園甲部は数百年の歴史を持ち、いにしえからの伝統が大切に受け継がれているといいます。舞妓や芸妓による磨き抜かれたおもてなしの対価から生まれた弥栄会館は、いわば彼女たちの分身のような存在。振り返れば、帝国ホテルもまた、日本の近代化を目指す高い志を持った人々の熱意によって生まれました。
両者の類似点はこれだけではありません。人々にとってかけがえのない集いの場であったこともそう。帝国ホテルが文化交流の拠点となったのは前述の通りですが、弥栄会館については「私が子どもの時分、京都には他に多目的ホールがなかったので、娯楽を楽しめる弥栄会館は貴重な存在でした」と、てる子さん。
「幼い頃は、兄や近所の子どもらと連れ立って建物の外に設けられた螺旋階段を上り、イングリッド・バーグマンが主演する映画など、洋画のロードショーをようけ観ました。懐かしい思い出です。舞妓はんになった時分には、タカラビールが屋上にビアガーデンを出していましたっけ。そうそう。夏には前の広場で盆踊りもやっていました」
人々が集う場としての親和性が高い「帝国ホテル」と「弥栄会館」。こうしてみると、両者の出会いは必然のものだったのかもしれません。
映画『サヨナラ』の舞台にもなった弥栄会館
さて、弥栄会館は地元の人達に親しまれただけでなく、一本の映画を通して日本と外国の文化交流の一端も担いました。
その映画とは、1957年に公開されたマーロン・ブランド主演のハリウッド作品『サヨナラ』。朝鮮戦争時に日本に転任してきたアメリカ軍人(マーロン・ブランド)と、歌劇団の花形スターである日本人女性(高美以子)の恋物語で、撮影は京都や東京で行われました。弥栄会館は歌劇団の劇場として二人の恋の行方が決まる重要なシーンに登場します。
「京都でのロケはたしか1年ぐらいかかったのと違いますか。当時、私は舞妓でしたが、弥栄会館でもずいぶん長いこと撮影していたと記憶しています。マーロン・ブランドは撮影が終わると毎晩のように祇園の町に来てはりました。私の膝枕で寝てはる写真も残っています。実は私もちょっとだけ出演しているんですよ。マーロン・ブランド扮する軍人には婚約者がいるんですけどね、日本の女性と一緒になるから諦めるように説得するシーンで、舞妓はんとして登場し、お酌をしました。お座敷遊びのシーンにも映っています」
映画が完成すると、てる子さんは宣伝のためアメリカに渡りました。海外へ行くことを「洋行」と言っていた時代、日本髪に着物という出で立ちで、ハワイやロサンゼルス、ワシントンD.C.を巡ったそうです。
「羽田から日本航空が週に1便しか飛んでいない頃です。ワイキキの綺麗な海や椰子の木を目にしても、これがハワイというところなんだなというぐらいの感想でした。でも、ハリウッドに行ってオードリー・ヘプバーンと写真を撮った時はさすがに興奮しましたね。航空会社のストライキに遭わなかったら、ケネディ大統領にもお会いすることができたかもしれません」
帝国ホテル 京都に期待すること
2014年に耐震性の不足が確認されて、2017年からは一部を改修・耐震補強し、ギオンコーナーとして利用されていた弥栄会館。てる子さんは当時を振り返り、「老朽化は哀れ。タイルが剥がれていたりするのを見るのはつらかった」と述懐します。
「そやさかい、帝国ホテルさんが来ることで再生が決まり、ありがたいと思いました。お茶屋も、芸妓はんも、舞妓はんも減った今の祇園の体力では、竣工した時と同じようにはいかしまへん。だからこうして助けてもろて、ホテルと町が持ちつ持たれつでやっていけたらいいなと思っています。やっぱり自分の生まれ育った祇園町には並々ならぬ恩を感じています。帝国ホテルは日本で一番のホテルやさかい、新しい風が吹いてお客さんの流れも変わるのと違いますか。私らは昔と変わらずおもてなしの心を磨き上げて、その時を待ち望んでいるところです」
花街文化の晴れ舞台・歌舞練場に寄り添って、
祇園の町に憩いを届けたもうひとつの舞台、弥栄会館。
堂々と聳えるその姿も、この地で愛されてきた記憶も失うことなく、
これからも誰かの物語を綴る舞台であり続けるために。
「弥栄会館」は「帝国ホテル 京都」へ。
令和八年、ふたたび開場。次は、あなたの寛ぎの舞台へ。